なぜ家庭新聞をつくるのか?パート2 太田先生のメール転送

人は誰でもドラマを好む。映画、演劇、歌舞伎、浄瑠璃、オペラまで。その中で泣き、笑い、怒り、悔い、苦悩しながらドラマを味わう。いわゆる、劇的な体験、ドラマティックなシーン、決定的瞬間などといわれるものが人間の本性的に好きなのである。できるなら、その劇的な事を自分でも体験したいと心ひそかに願っている。それでは、自分にとって最も劇的で、一番意味のあるドラマは何だろうか?どこかの国で起こった革命や政変だろうか?誰かの身にふりかかった栄光やスキャンダルだろうか?また、毎日のように新聞の一面トップを飾る大事件なのだろうか?そうではない。それは言うまてもなく、親子が、それこそ命懸けで生きている自分たち家族の人生そのものである。その家族の歴史や生きざまを、作家が書き、脚本家がシナリオにし、監督が映画につくったとしたら、『ベンハー』や『風と共に去りぬ』にも負けない、愛や勝利がちりばめられた傑作になるに違いない。誰の場合でも、人生というものはそれだけのものを孕んでいるのである。そう考えると、他人が作ったドラマや映画を、面白いからといって、そうそう見ていられなくなる。例えば、ブラウン管の前
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けになってテレビの二時間ドラマを見たとする。それは言い換えれば、せっかくの自分の人生を他人によってそれだけの時間生きられたことになる。誰だって他人の人生の見物人になりたくないはずだ。やはり、人生という一回きりの舞台の、妻はヒロインであり、夫は常にヒーローであり、子供はできうるかぎり、観客の側ではなく演じる側に立つように教育すべきだと思う。家族、家庭、人間な人生、わたし自身の生涯、それは放っておけば誰も小説にも、映画にもしてくれないであろう、かけがえのないドラマである。だからこそ、自分たちの手でしっかりと記録し表現し、美しく脚色しておく必要がある。

?いつもありがとうございます?出愛感謝?セレブ井村より裎