赦す道

ますみさんからメールがあった。「ひでこさんから、卒業します。今まで本当にありがとうございました。」…でした。
私にとっては嬉しいメールであったが、これで良かったかのな?とも考える。おそらく、彼女の性格上、私の言動や対応に傷ついたと言っては何人かに喋るだろうと、覚悟しているし、それで良いと思っている。
かくも、私はますみさんを見ながら、私も人に依存している部分を見ていた。
依存的で、自己中心的な態度は、家族や親族、職場の方々は犠牲者でもある。
特に、弟に対しては、自分の事は棚にあげて、私は被害者だと小さな時から考えていた。男は思春期からどうしようもなく暴力的になるタイプと、大人しいタイプがあるが、弟は前者であった。また、従兄弟達は男が揃い、その行動に滑車がかかった。
母親に相談しても、母親と父親の夫婦関係、母親と姑の関係から母親は誰にも相談はできず、父親は子供達の悩みを知るよしもなかったので、解決に至らなかったし、私は更に男性気丈になるしか防衛する方法はなかった。
父親は、仕事が常にある訳ではなく、冬は家で寝ている(しかなかった。)し、仕事の営業力は長い年月をかけてやっと出来上がる。
そんな時に、キリスト教の教会へ行き、家庭が世界の縮図で世界平和の源と教えられ、稲妻のごとく感動した。
それから、実家の家庭修復に努力した。簡単ではなかった…。
父親も祖父母との関係は悪く、兄弟関係も悪かった。
夫婦関係、親子関係が悪ければ、兄弟関係は更に深刻になる事も理解できた。
教会で教えらたのが、親なる神様と子である人間(自分)との関係に途方もない隔たりがあると言う事だ。理由については割愛するが、これも納得した。
人を赦したいのに、でも…と言っては、自己中心的な想いに支配されては、また悶々とし、結局は被害者は加害者を憎む。加害者は、罪の意識など全くないので、加害者は被害者と言い出す。
そんな綿々とした呪縛から開放されたいと思って祈った。
赦しす道は簡単ではない。神様が赦す道を行く事を望むのであれば、苦難の道を行きます…とイエス様の十字架の路程を思った。
ふと、答えがやってきた。
周りの方々に喜んでもらえるように、こんな事をしてみよう…と、アイディアが湧いてきた。
エス様が何故、救世主か?と問うた。人類が経験した事もない苦痛を乗り越えて、自分を殺す人をも赦したからである。もし、人生を謳歌したイエスならば、苦痛を受ける人々は救えないだろう。
人は、自分と同じ境遇の体験者や、自分より苦労した方々から励まされ、力や希望を得る。また、そのような方々は、普段は華やかに見える程に美しく振る舞っていたり、丁寧に生活している。
私の修行はまだまだだ…。完成したらつまんないかも〜、などと思ったりして(笑)

そんな弟は、第3子の父親となり、今度は家を新築する。大切なお祝いを真心込めて祝いの席に同参できればと思う。
毎回、祝いの席の度に成長した弟の姿に両親は涙ぐんでいる。私はそんな両親を見て、フンっと横向くタイプの臍曲がりだ…と、義理母親がオカシイと笑う。それでいいわ(笑)